2011年8月31日水曜日

何かを記すというペースメーカー

何かしたら定期的に更新しなくてはならないと言う縛りは自身の思考を整理するには十分すぎるほどの補助輪になる。

脳内で完結し、文章化しないで理解したつもりになっていることの多くは人にうまく説明する事が出来ない。例え個人の中で理解していたとしても、説明することが出来ない限り世間様からは理解していないと言うありがたい評価をいただくことになる。

誰かの目につく形で思考を文章化することは普段山のように情報に触れている人ほどリターンは大きい。

何もかもきちんと整理するのは機会費用にペイしないだろうが、多様な情報に触れている人ほど自身に内化したい情報を選択し、またそれを深める権利を与えられる。そうして選択した情報を自分ではない何者かに伝わる形に加工しなおす段階で定着と言うものが得られるだろう。



ほとんどの人は怠惰だ。
自分が怠惰であると言う事を受け入れることから何事も始まるように思う。
大事なのは怠惰である自分を所与として如何に規律付けた行動に導くか、それを設計することだ。けっして規律正しい人間である必要性はない。(まあ規律正しい人間ほど強いコミットメントは必要ないというのは歴然とした事実だ。残念ながら統計的にも確認されている。)


僕は性善説も性悪説もないと考えている。
あるのは与えられた条件とそれに対する反応であり、重要なのはインセンティブだ。インセンティブに反応した結果が単に善と評価されるものであったり悪と評価されるものであったりするただそれだけのことだ。

それにしたって悪とか善とかだって酷く相対的で震えるほど曖昧だ。

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