2011年12月26日月曜日

客観的イケメンの不可能性定理

クリスマスに相手が居なかったブサメンならびにフツメン、および雰囲気イケメンに送るエントリー



客観的イケメンとは存在するのか?


TLで見かけたこの【客観的イケメン】と言う言葉に違和感を覚えたため筆をとった。

さて、イケメンという言葉と客観的という言葉をどのように解釈したら良いだろうか?

最初にイケメンという言葉を考えてみよう。これはどの様に使われているだろうか?
イケメンという言葉にはかっこいいだとか、男らしいだとか、爽やかだとかいろんな要素があるように思われる。随分勝手に使われているように見えないだろうか?
多くの場合人々は特定の要素Xがある閾値を超えた場合に人の事をイケメンであると表現している様に思う。酷く曖昧で、実に主観的な価値判断により特定の人Xは特定の人Yによりイケメンと呼ばれる。

では客観的イケメンとは存在しうるのか?

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きゃっかん‐てき〔キヤククワン‐〕【客観的】
[形動]

1 主観または主体を離れて独立に存在するさま。⇔主観的。

2 特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。「―な意見」「―に描写する」⇔主観的。

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イケメンという言葉が多分にして主観的な判断に基づく言葉故に客観的イケメンという言葉に矛盾を感じざるを得ない。ひとつの問題は主観の集積は客観たりうるのかという事だ。

客観的イケメンと発した人物はこういった事はおそらく考えておらず、自覚的かどうかはさておき『社会の大部分の人がイケメンであると合意しうる容姿を兼ね備えた人物』といった意味でこの言葉を発していたのではないかと思われる。この社会の大部分の人が合意しうるという点を持って客観的と判断していいのかという点は疑問だ。99%の人がイケメンと同意したとしても1%が合意しない場合に、それは客観的と言うことができるだろうか?

また社会の大部分のという修飾語を付けたわけだが、その客観的イケメンが日本国内という定義域において『客観的イケメン』と判断されたとしても、他の文化圏において『客観的イケメン』と判断されないことは往々にしてありうる。それはつまり普遍性を担保できていないことになる。
この様に考えると既に定義からして矛盾をはらむ【客観的イケメン】とは存在し得ないと言える。

(q.e.d)


よろこべブサメンならびにフツメン、および雰囲気イケメン諸君!
客観的なイケメンなんて存在しない!
任意のXは誰かにとってはイケメンなのだ!

すべてを得ようとはせず自分を愛する人を捜すのだ!!!
(と書いたもののこのマッチング効率が酷く低いのがブサメンならびにふつめn(ryなのである嗚呼)


Reference 
フツメンの中のフツメン(偏差値50)って画像だとどれくらい? : TRTR(・Д・;) http://blog.livedoor.jp/roadtoreality/archives/51471359.html

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