・芸術と産業としての香水:ジャン・クロード・エレナ(Jean Claude Ellena) のお話
以下の一節は、エレナが一つの香水を作る時にどんな信念を持ち、どの様にインスピレーションを得ているのかがよく表されている。多くの調香師がそうであるように、彼も各地への旅行と自然からインスピレーションを得ることが多いようだ。
私は匂いの剽窃者、盗人、そして掠奪者だ。自然は私にとっては、きっかけ、出発点だ。しかしインスピレーションの源や創造の息吹ではない。太陽は昇り沈むのは、どこであろうと美しい。どこからどのように見るかというだけの問題なのだ。私は香水のなかで、お茶や小麦粉、いちじくを自然のままに再生して人を驚かせようとはしない。香水をつくるとは、匂いを解釈し、記号に変換することである。この記号が意味を伝えるのだ。(P69)
こうした香水作りの一つの例として、彼が手がけたエルメスの香水があげられている。
2005年、エルメスの「ナイルの庭」のテーマを選んだのは、アスワンのナイル川のなかの島の庭を散歩しているときだった。マンゴーの並木道、五月。マンゴーの木の枝は青い果実の重みでたわみ、果実が手の届くほど低く垂れていた。ひとつ、実をもいだ。花床から透明な乳液があふれ出た。鼻に持っていった。匂いに魅了された。樹脂、オレンジの皮、グレープフルーツ、にんじん、オポポナックス、杜松、酸味のある匂い、強い匂い、優しい匂いなど、匂いのイメージがあふれ出てきた。抗わず、感覚を愛撫されるままに、匂いを自分のものにする。この喜びと感覚を、私と一緒にいる人々と分かち合いたい。こうしてテーマが決まった。(P70)
この文章からも匂いたつ様だ。ナイル川のマンゴーの青い果実からインスピレーションを得たようだが、その一つの匂いから非常に多くの着想を得ていることが分かる。何よりこの文章だけでも、彼が作った香水をどうしてもかいでみたいと思わされた。と言うわけで、
この庭を、紋切型ではない方法で物語りたかった。青いマンゴーの匂いが記号となり、ナイルの島の庭の象徴となった。あとになって、エジプトではこの果実のたまに年に一度のお祭りがあることを知った。(P71)
新宿の伊勢丹に行って実際に匂いを試してきた。彼はエルメスで既に庭シリーズとして4作品を出しているが今回はナイルの庭と四作目の屋根の上の庭を試してきた。ナイルの庭は、トップノートはグリーンマンゴーとロータスフラワー、ミドルはイグサ・シカモウッド、ラストノートはインセンス・シクラメンウッドと言う構成。
節度ある甘さとグリーンマンゴーの青い匂いからユニセックスな印象もある香水だった。家に帰ってきて匂いをつけてもらった紙を再びかぐと、パウダー系の香りが際立っていたが心地良い甘さだった。
匂い自体も素晴らしいものの、こうした創作の背景、ストーリー付けも香水という製品を考える上では重要な要素であると体感できた。単に匂いだけを与えられてこうした着想をr得られるほど消費者の多くは感受性は豊かではないのだ。
■香水が芸術たるには
香水がひとつの完全な芸術表現のかたちとして認められるには、批評が不可欠である。ただ調香の原料を明かし、列挙して、描写するだけではない。料理のレシピーを読んだだけでは、完成した料理の味を舌で味わえないのと同じことだ。そうではなくて、香水を、その表現、独創性、クオリティー、私が文体とよぶ「香水の書き方」で、判断するのだ。文体こそ、香水を、それを調合した調香師から区別するものである。こうした批評を受けて、調香師は香水作りをたえず見直すことになる。市場では、あらゆるブランドが他のブランドと競争せざるをえない。つかのまの状態にすぎない目新しさよりも、差別化のほうが重要になる。差別化によって、ブランドの永続性も保たれる。(P91)
芸術たるには生産者だけではなく健全な批評家が必要だろう。評価をする上では、それを表現する語彙が必要になる。これが既に確立されている分かりやすい例はワインだろう。どうやら香水の批評に関してはまだこうした共通語彙が浸透しきっていない様だ。良質な批評と競争にさらされることで、より独創的で美しい香水がまだまだ現れる余地があると考えるとまた楽しそうだとも言える。